【電子商店繁盛記 Episode=0 】最終回

この電子商店繁盛記 Episode=0を書き留めてきて、色んなことが頭の中で整理が出来てきた。本当はもっともっとエピソードもあり、書く予定でいたのだが、頭の中が整理できると共に書き留めてきたものが、綺麗に心に収まった気がして今まで時々悶々と考えていたことが、最近ではまったく考えないことが多くなった。時が過ぎて忘れたというものではなく、自分の中で納得し、もうこれから生きていく上の中でそれらのことは改めて引き出す必要がなくなったのかも知れない。

書くことにより、自分がいかに思い違いをしていたか?ということも多々感じた。

つらいことも多かったが、今では恨む気持ちもないし、また思い出とは違う、私たちにとっては自信に繋がるいい経験だったと言えるようになった気がする。

書くことにより、今までのことを整理するのはある意味必要な作業だったのだと思うし、それを私たちの日記によって書けて残せたことは本当に幸せなことと感じている。

そして唐突ではありますが、これが最後のエピソードとして残そうと思います。

2000年の話。

私はその日、なんだか仕事もする気もわかずに、皆が階下で仕事していたが1人、布団から出られないでいた。

同居4年目。もうそろそろここから出たい。その願望が日に日に強くなったし、やはり仕事、同居という2つをこの狭い家で行うことは精神的にも限界だったので、そうやって時々起きれない日があった。

売り上げは順調に推移し、入荷した商品が倉庫に収まりきれずに、食卓を占拠した日も多かった。特に雨の降る日は、半分ガレージの倉庫は商品がぬれてしまうので、事務所、食卓、置けるところにはどんどん商品を高く積み上げた。

時々、その商品が崩れて顔面に当たって、その時は本当に情けなかった。

でも売れていることは何にも変え難い。嬉しいと共に、情けなくもある複雑な気持ちだった。

そんな日常の毎日で、起きれずに布団でぐずぐずしている時だった。

階下から階段を駆け上る音がした。堂園だった。

部屋に入るや否や

「やったよ!賞をとった!」

日経ネットビジネスという雑誌が主催のECグランプリ2000で部門賞を頂いたのだ。

賞を取るということは、メディアからも注目されるし、ユーザーさんへの信頼にも繋がる。

何より、今までやってきたことを正式に認められたということだ。

本当に嬉しかった。

2人で抱き合って喜んだ。

そして、それを機にいよいよ、住居を独立する決心をしついに駅前の賃貸マンションに引っ越すことになった。

同居4年。ついにそれに終止符が打たれたのだ。

夜逃げ同然といわなくても、こっそりとアパートを出た4年前。

ここからいつになったら出られるのか?とただただ、恨んで義理の両親に喧嘩して噛み付いた日々。

夜中に頭を抱えて、これからどうしようかと話あった日々。

どす黒い闇の階段。

そんな4年間を過ごした実家から私たちは出た。

それから現在まで14年。

もちろん、順風満帆で来たわけではない。今でも多くの問題も抱えているが、私たちは今、自分の分譲のマンションを2つもち、そのローンを返すべく一生懸命頑張っている(笑)

借金生活は未だ変わらないということになるが、自分たちのために、自分の力で生きている。

ただ、まだまだ人より遅れてようやくスタートラインにたって、今少しだけ進んでいると状態は変わらない。

これからも絶え間ない努力が必要だし、あの大変な時期に後戻りすることがないよう頑張って行かねばと思っている。

不定期で、つたない文章を影ながら読んでいただいた皆様。

本当にありがとうございました。

この場を借りて御礼申し上げます。

 

照国電機株式会社 代表取締役副社長

堂園 亜佐子

 

 

【電子商店繁盛記 Episode=0 】順調に売れ出した

そんな訳で、現在の会長が社長に就任し、義理の父は営業部長に降格となり、毎日顔をあわすこととなった。

私たちといえば、右肩上がりに売り上げが伸び始め、建築業界の繁盛期である年度末の3月には、工事の依頼がどんどん舞い込んだ。

そのたびに嬉しくて、

「また注文が来たよ~」と電話したものだった。

日中卸の仕事もしていた堂園だったので、インターネットの注文を処理しきれなくなり、ついに私は夜のアルバイトを辞めて、ネットの仕事に注力を注ぐことにした。

アルバイトは約2年近くに渡ったのだろうか。履歴書に28歳と記入して、アルバイトの仲間に30歳の誕生日だと言って、ミニチュアのバラの造花を30本もらったのだから、2年弱で間違いない。

「堂園さん。やめちゃうんだ。残念だなあ~」

アルバイト先の職員の人に言われて少し嬉しかった。アルバイトをはじめたころは、にっちもさっちもいかず、新しいバイト先で不安だったが、晴れ晴れとした気持ちで辞めることがうれしかった。

しかし、1台のパソコンで作業しているので、注文が多くなりはじめると、作業的に限界になってきた。

当時はまだまだPCも高く、スペックなどをこだわれば1台30万近くはあたりまえだ。

経費削減の鬼、社長(現会長)にどう切り出すべきか、、、、。

しかし社長はいとも簡単に了承した。

社長のすごいところは、こういうところだと思う。

無駄だと思ったことは一切許さないが、必要と思えば細かいことには厭わない。

ちなみに、2台のパソコンを購入し、御役御免になって初代のパソコンのバリュースター号は伝説のパソコンとして、今でも保管されている。

しかし2台のパソコンに社長、義理の父、義理の母、とにかく事務所も手狭になった上、当時ネットショップというのは珍しく、取材が相次いだ。

TVの取材も2~3本来たし、とりわけ雑誌の取材がとにかく多くて、時にはお客様とかちあったりして、お客様の座っているソファーの上を、歩いて奥に行ってもらうこともあった。

お金のない貧乏会社だったが、とにかく人の出入りがすごくなった。会社というのは、人の出入りが多いほうがいい。良くも悪くも人の出入りにより、空気が循環し、時々そこにすごくいい気が入ってくるからだ。

そういう意味では当時、すごくいい気がたくさん入り始めていたと思う。

新しい出会いもとにかく増えた。

私たちにとっては、今後の人生をも左右する人たちにたくさん出会うことになった。

【電子商店繁盛記 Episode=0 】会長がクビになった日

ようやく軌道に乗る兆しが見えてきたネットショップだったが、そんなに簡単に業績回復という訳にはいかない。

何せ背負っているものが大きすぎる。よろよろと歩けるか、歩けないかの重症患者だ。

当時背負っていた借金の多くは、会長がいた会社の資金を投入するという形で、街金、闇金などの公的じゃない借金を中心にすべて消した。まずはこれを抱えていては商売は続けられないからだ。

その他、会長の預貯金、息子さんの貯金など持っているものはすべて投入してくれた。

知らない人が聞いたら、他人の会長がなぜそこまで肩入れするのか?

誰でもそう思うだろう。

しかし会長自身も、まさか練馬の小さい電気卸店が億単位の借金をしているとは思わず、もう引き返すことが出来なくなってしまっていた。

しかし当時は会長も老舗の照明器具メーカーの一社員。すべての経理は一任されていたとしても、1つの会社にそこまで肩入れすれば、、、、問題にならない訳がない。

もちろん会長としても、うちの会社というよりも、今うちが倒れたらそれこそすべてを回収できなくなり会長の会社としても被害は甚大だ。何の計算もなくという訳ではなく、会長自身の考えがあってということもあった。とにかく、うちがまた仕事を軌道にのせて、回収できればと思ってのことだった。

しかし、それは会長の会社側からしたら到底理解されないことであった。

そして、ついにある日のこと。

夜の7時過ぎくらいだったろうか、会長からの電話だった。

「あさちゃん。ついにクビになっちゃったよ。これからは俺がお世話になる番だな。よろしく頼むよ」

会長は豪快に笑った。

私はその電話を取って、何も言えなかった。会長は私だから、明るい風に言っていたが、人一人の人生そのものを私たちが変えてしまったのだ。

どこまで行ったら、この状況の底が見えるんだろうか?

また何か、地の底に引きづられていく感じがした。

そして、会長は会社を辞めうちの会社の社長に就任した。

狭い事務所を片付けて、会長が座れる机を用意した。

そしてこれから毎日、この怖い会長と一緒に仕事をすることになる。

 

私たちは今一度背筋を正した。

【電子商店繁盛記 Episode=0 】首脳会議

年末大阪で過ごし、年が明けた1997年。

立ち上げたネットショップでようやく、ぽつり、ぽつりと売れるようになってきた。

西からいい機運を持ってきたかも知れない。私たちは関西とは相性がいいようだ。その証拠に、ネットショップで知り合った他業種の人などに、しばしば

「てるくにでんきさんは、大阪のショップかと思ってました」

と言われることが多かった。師匠が京都のえーちゃんということもあるのかも知れないが。

さて、夜のバイトから戻ると

「あさこ!また1台売れたよ!」

と言われることが増えてきた。そのたびに2人で喜んだ。嬉しかった。

その当時は、私はネットショップには一切関係していなくて、堂園がページ作りから受注まで行っていた。たぶん、今、私たちを知っている方たちは信じられないだろう(笑)

ただ、私も色々とアイディアを出し、私が特に気に入った海外生産のスタンド類を特集したページを作ってもらったりした。

施工例をまとめた、実例集というコーナーを作ったら参考になるんじゃないか?ということで、今までの施工例を写真で掲載したりした。自分たちの得意分野なので、やりたいこと、見せたいことが次々に浮かんだ。

ある時に、毎日日記を書いたら面白いんじゃないか?という話になった。今ではブログという簡易に日記をアップできるツールがあったが、その当時はそのような便利なツールがないので、ホームページでテキストで書いた。1人、1人の日記を書いても面白くないので、夫婦でしか書けないもの。掛け合いの日記を書いたら面白いのではないか?そして、お互い経営者ということでもあるツートップなので、タイトルをこうした。

首脳会議

このタイトルには、自己満足ながら2人で大いに笑った。秀逸だと思った。風が吹けば飛ぶような練馬の小さい自営業のいわゆるパパ、ママストアで、何が首脳会議だ。世の中からは相当出遅れていた私たちだったが、それを逆手にとった気がした。

そう、こうしてこの日記(ブログ)が生まれたのだった。

しかし、2012年。15年も続いた日記だったにもかかわらず、あのファーストサーバーのずさんなサーバー管理の犠牲となり消失した。今でも本当に許せない気持ちで一杯だが、やっぱり前を向いて歩くしかないのだろう。幸い、写真はすべて消失したが、一部テキストとしては残っている。

施工例を載せたせいもあり、納品と同時に工事の依頼も増えてきた。

ついにビジネスとして、動き出したのだ。

 

【電子商店繁盛記 Episode=0 】青春18キップ

1台売れたものの、その後はまた鳴かず飛ばずのネットショップだった。

私は相変わらず夜のアルバイトは続けていたし、会長への売り上げ報告も引き続きあり胃の痛い毎日だった。

義理の父との喧嘩も頻繁な毎日だった。そんな同居1年目の年末。さすがにこの家で大晦日やお正月を迎えるとなると気が滅入った。そんな時、大阪に転勤していた兄夫婦が年末遊びに来ないか?と誘ってくれたのだった。

新幹線や飛行機のお金を工面できないこともない。しかし、こんな状況で大阪に行くなんていうことは会長に言い出しにくかった。といって、やっぱりここで年越しすることはしたくない。そんな時、ふと思い出したのだ。青春18キップの存在を!やはり以前に会長自身が大阪に行く時に、青春18キップを買い、当時1800円前後で大阪に行ったということを。

若干の後ろめたさを感じつつも、12/29の夜中に出発した。青春18キップとは5枚つづりの回数券のようなもので、5回JRの普通列車に乗り放題できる。当時は確か1枚¥1800だったと思う。2人なので¥3600で大阪に行けてしまうのだ。でも普通列車なので、大阪までは15~6時間もかかるのだ。

しかし、家をしばし出られるという開放感と、ちょうど日の出の時刻に静岡あたりの海岸沿いを走るので、朝陽に照らされた海を車窓から見た時は、すべてを忘れるくらいに嬉しかった。

しかし乗り換えるたびに、携帯の着信に入った会社からの電話に折り返し、入金があるだの、ないだの、お金が足りないだの電話口で堂園と義理の父が喧嘩していた。そのたびに力が抜けたが、それでもやっぱり大阪に行きたかった。

大阪の兄のうちに着いたのは、もう21時は過ぎていたと思う。おおよそ事情は知っていた兄夫婦は、翌日から大阪の美味しいものをたくさん食べさせてくれたし、色んなところにも連れていってくれた。関西のお正月がどういうものなのか?というのも見れたし、東京のことは忘れて楽しんだ。

結局3泊くらいお世話になったのだと思うが、ふたたび青春18キップで東京に戻る日となった。

また東京に戻り大変な毎日が待っているだろうけれど、それはそれで仕方ないことだし、それを抜け出すために頑張るしかない。楽しい日々とのお別れは寂しいけれど、また気持ちを新たにと思っていた。

だが、駅に行くバスへ乗り込み、バス亭に見送りに来た兄夫婦に手を振ろうと思って2人の顔を見たとたんに、もう涙がこみ上げてきてしまった。もちろんそんな涙を見せることは出来ないし、何より恥ずかしい。姿が見えなくなるまでは、ぐっと我慢していたし、バスの中で泣くなんて出来ないとずっと我慢していたが、京阪電車に乗ってからは涙が溢れて、溢れて、ずっと下を向いているしかなかった。

気持ちでは割り切っていても、ぐっと押さえていた何かが兄夫婦のなんともいえない心配そうな顔をみた瞬間に、一気に溢れ出てしまったのかもしれない。

私たちはやっぱり大変な状況に居るのだな、と思った。

そして、やっぱり私は帰りたくなかったのだ。気持ちにウソはつけても、体は正直に反応したのだ。

行きの道中は色々思い出すのだが、そんな訳で帰りの道中はまったく記憶がない。

たぶんもう思い出したくないことの1つなのだ(笑)

 

しかし、大阪から帰ってきて、いよいよネットショップは動きだすことになる。

【電子商店繁盛記 Episode=0 】売れた!!

新しいホームページにリニューアルしたが、うんともすんとも売れなかった。

しかし、その間堂園は根気強く、色々手直ししたり商品を掲載したり試行錯誤は続いた。

そして、3ヵ月後。1996年9月。

1台シャンデリアが売れた!

しかし、今のような買い物カゴなんてない時代なので、メールで注文が来るように設定してあったのだが、見事に文字化けしていて読むことが出来ない。

ただ、商品番号と電話番号だけは、文字化けしていなかったので、お客様に直接連絡を取るという、今では考えられないが、そんな販売第一号となった。

売れたとわかった時には、本当に嬉しかった。

何より、誰かが自分たちのページを見てくれていたのだ。ということに驚いた。

一番最初のお客様は長崎のお客様だった。

そして売れた商品は、一番最初にそんなもの宅配便で送れるの?と思った大きくて重い、ワレモノのシャンデリアだった。

私たちの商品が、長崎に行く。

不思議な感覚だった。

宅配便は、その当時も時間指定には割りと安定感をもっていたクロネコヤマトにお願いしたかったのだが、照明器具を送りたいとお願いしたら

前例がないので、、、、、。

と見事に断られた。

そこで、今まで使っていた福西通運にお願いした。

そののち、クロネコヤマトはうちの出庫数を見て、是非やらせてほしい、と言うことになるのだが、、、、。

売れるまで3ヶ月要してしまったが、売れるんだという確固たる自信がつくことになった。

しかし、それからもボチボチという感じだった。

明らかに、増えてきたのは、年が明けてからだったと思う。年末大阪の転勤している兄夫婦の家で年越しをして、帰ってきてから急に動き出すようになった。

 

【電子商店繁盛記 Episode=0 】クリとまろん

苦しい同居時代。

犬1匹に猫1匹。

犬が15歳で、猫が12歳くらいだったのだろうか。

堂園の両親が飼っていたペットたちだ。

苦しい故に、特に犬には最期は十分なことがしてやれなかった。

今でも夜中に、クリのことを思い出して、号泣している義理の母と妹のかすかに聞こえる声が忘れられない。

堂園も、その犬を子犬の時代から飼っていたので、死んでからしばらく気に病んだ。病気のクリの看病を仕事そっちのけでやっていた(そっちのけということでもなかったのだと思うが、当時の私たちにはそう見えてしまった)義理の父とは、それが理由でよく喧嘩したからだ。

私も、自分の犬を飼うようになってはじめてその気持ちが痛いほどわかる。

もちろん、苦しいからと言って、他人に譲ったり施設に入れたわけではないが、堂園の両親はもっともっと自分の飼い犬に色々してやりたかったに違いない。

私たちにそれをさせてあげられる気持ちの余裕もなかった。

経済的に余裕がないということは、心までも蝕んでいくのだ。

だからと言って今ここで懺悔しているわけでもない。なぜなら、それはあまりにもかっこつけすぎだし、簡単に逃げているようでずるいからだ。なので、けしてこう書くからと言って許してもらいたいと思っている訳じゃない。到底許してもらえることでもないと思っている。

ただ私はこれだけは思っていて、それは私が自分の今の飼い犬が、病気になって余命幾ばくもないとわかり、そのため休まなければならない時には、はっきりとその理由を言って、休ませてもらいたいと思っている。そういう環境を作りたいと思っている。そのために、今たくさん働き環境を整えられるように一生懸命働いている。

同じ過ちを犯したくない。それがクリへの謝罪の気持ちでもあり、自分への戒めの気持ちだ。

潜在意識かわからないが、

その当時亡くなった犬は クリ と言い、九十九里浜から名前をとった。

今の私たちの犬が まろん。 これは栗のまろんだ。もちろん、クリの名前に似せてとは考えていなかった。

でもクリとまろん。

クリとまろん

なのだ。

そこに何かあるのか、ないのか。それはわからない。

でも、

クリとまろん

クリとまろん なのだ。

 

【電子商店繁盛記 Episode=0 】確かな手ごたえ

私たちはこうやって、現在もネットショップの師匠と敬って止まない岸本氏=えーちゃんに出会うことが出来た。

約束した中野新橋のすっぽん屋さんは、こじんまりとしたカウンターの小さなお店だったが、店の奥に5畳程度の座敷があった。そこにえーちゃん他、子供服、チョコレート、ジンギスカンをそれぞれ売ってらっしゃるネットショップの方たち、地域のコミュニティとしてホームページを立ち上げている方、出版社の方など、数名の方が集まっていた。

今では全国の他業種の集まりというのは普通のことで、地域や職種を越えて集まる機会が多いが、おそらく私たちにとってそういう集まりはその時が始めてだったんじゃないかと思う。

子供服、チョコレート、ジンギスカンのネットショップのオーナーさんたちは、やはり自分でホームページを立ち上げて、堂園と同じようにネットを通じてえーちゃんと知り合った方だそうで、私たちよりも早く知り合っていたせいか、すごく仲が良さそうに見えた。そして、ネットショップに関してもずいぶんとつっこんだ質問をしていたように感じた。

すごい。すごい。すごすぎる。

私の知らない間に、世界はものすごいスピードで変化していると思った。

そしてこの場に居られることにものすごく興奮した。特に堂園は、今まで疑問に思っていたことをえーちゃんに実際に会って質問できたのだから、私の比ではなかったに違いない。

とにかく、ネットショップにものすごい手ごたえを感じた夜だった。

帰りの電車の中で、えーちゃんの気さくなお人柄、それでいて、指摘するところはびしっと指摘する姿勢にも感動していた。

このあと、堂園は作ったホームページを1から作り直すことに邁進した。

今で言う、リニューアル ということになる。

リニューアルのページは照明器具に特化し、店舗の名前に

「照明器具の専門店」

とつけた。

そうなると意識も変わるものなのか、今まで販売した商品の中で、自分がいいなあと思った器具を中心に掲載するようになった。おそらく、照明器具の販売に携わるものとしての誇りだ。プロとして、生半可なものは売れない。自分がいいと思ったものは間違いないというプライドだ。

今までは売り上げをただ上げたいために、お客さんの顔色を伺った作り方だったが、プロとしての意地を見せたいという気持ちに変わったのだ。

そしてセレクトした商品がは後に、ネット通販上での売れ筋商品になっていくことになる。後続で出てきた店舗が、こぞってマネして掲載するほどになった。

しかし、実際に売れるまでには、そこから3ヶ月ほどかかった。

 

【電子商店繁盛記 Episode=0 】出会い

昼間は卸の仕事、夜はホームページ作りと没頭してきた堂園だったが、ようやくそれらしいホームページは出来上がった。

残念ながら、当時のページは保存していないが、照明器具だけでなく家電品も掲載していた。ただただ縦一列に商品を並べているだけだった。

でも教えてくれる人もいない、今と違ってツールもない。書籍の種類も少ない中で、ウインドウズを使いながらも、MACのテキストを買って、それでもあーでもない、こーでもない、とよくここまで漕ぎつけたと思う。

しかし、まったく売れなかった。

私の兄も当時インターネットをやっていて、ページを見てもらったが、

何のお店かわからない

という感想だった。これにはなかなか痺れた。照明器具を売ろうと思って立ち上げたホームページが、なんのお店かわからないんじゃ、何のために作ったのか?

でもこの言葉がすべてだったと思う。

振り出しに戻った頃、あるネットショップを堂園が偶然見つけた。京都のTシャツ屋さん。当時は岸本屋さんという名前で、今のEASYさんだ。

運営していた岸本氏は、まだ日本でもネットショッピングなんて、ほんの一握りの人しかやっていない時代に月商100万を売り上げていた。月商100万なんて、私たちから見たら雲の上のような話だ。

そして驚くことに、岸本氏はそのノウハウをネットでも公開していたし、それをまとめた本を出版するとのことだった。

堂園はもちろん、その書籍を購入し思い切って岸本氏にDMを送る。

どうしたらそんなに売ることが出来るのしょうか?

うちのホームページを見た岸本氏の意見はこうだった。

なんのお店かわからない

そう、私の兄とまったく同じ意見だった。ネットショップはもっと専門に特化すべきだ。照明を売りたいなら、家電は載せるな。そして

ちかじか東京に行く予定があるので、ちょっと一杯やりませんか?

月商100万を売っている、ネットショップのカリスマが思いがけずも実際に会って下さるという。

私たちは興奮した。購入した本を握りしめて、約束した中野のすっぽん屋にドキドキしながら伺ったのを覚えている。

何かが変わるかもしれない。

何の根拠もなかったが、岸本氏に会うことによって、何か突破口が見つかるかもしれない。

暗闇のトンネルで一筋の光をその時に感じた。

 

そして、それは現実となった。

私たちは光を見つけた。

【電子商店繁盛記 Episode=0 】恐怖の冷凍おにぎり

また久しぶりにうちの会長の話に戻りたいと思う。

そう、あの鬼会長のエピソードだ。

とにかく無駄な経費はかけない主義の会長だが、私生活にもそれは及ぶようで、いや、これは1つの趣味なんじゃないかとも思うが、とにかく安売りスーパーで1円でも安く食品を買うことが好きな人だった。

私たちもそれに見習うべきなんだろうが、チラシを見比べて、どこどこのスーパーに自転車を走らせるということは特にしていなかった。でもとりたて贅沢品を買った覚えもない。

それに郷を煮やした会長は、日曜日になると自分の地元で安く仕入れた、牛乳とか卵や、基本的に料理に使うものをわざわざ持ってきた。もちろんタダではない。その分はきちんと払った。

これには私たちも結構面食らった。

確かに1円でも安い牛乳を手に入れることはありがたいが、電車で30分ほどの距離を休日返上して持ってきてくれるのは申し訳なかったし、何よりそこまでしてもらう意味もよくわからなかった。

でもそこまでして、生活を切り詰めるということを意識してほしい。

という意図であった。

確かに、私たちは困窮している割には、なかなか呑気な雰囲気がなくならなかったと思う。生活全般に強く意識しないと、この状況を乗り切ることは出来ない。それがちっとも会長には伝わっていなかったということだ。

タイ米でも食うぐらいの意識はないのか!

そう怒られたことがあった。

でもむしろタイ米のほうが当時は入手するには大変だった。

って、そういうことではない!!(笑)

とにかく生活を切り詰めろ。

会長の口癖だった。

ある時は、もうこれは時効なので追及はしないでほしいし、その店はもう無くなってしまったのであえて書くが、会長は某コンビニで月1だけ、週末夜中に働いていた。

これはお金のためではなく、親戚がどうしても週末の夜のバイトが手配がつかないので月1だけ、シフトを替わってあげていたという諸事情があってのことなのだが(困っている人がいると見捨てられない)そこで、期限切れのおにぎりとか、ブリトーを持って帰ってきたのだ。その日の期限切れなら、まだいい。

その親戚も、月1に来る会長のために、1ヶ月分の期限切れのおにぎりやブリトーを冷凍しておくのだ。それを持ってくるのだ。私たちに、、、、。

この冷凍したおにぎりっていうのが、死ぬほど不味かった。

まずレンジをかけても、手作りのおにぎりと違うので、色んな保存料なども含まれているに違いない、やわらかくならないのだ。

外側だけは、一見やわらかそうに見えるのだが、一口食べてみると

ボロボロボロボロ、、、、、

硬くなった米粒1粒、1粒が一気にバラバラになって、下に落ちた。

義理の妹も、ためしに会社のお昼用に持っていったところ、同僚と食べている時に、バラバラバラと落ちて非常に困ったという。

私はこのエピソードを、本当に切ないと思うが、同時に笑えた。

私はおにぎりは不味くて、ほとんど食べなかったが、ブリトーは案外旨かった。なので、ブリトーは大人気で、すぐ無くなってしまった。

結局申し訳ないが、おにぎりは半分くらいは捨ててしまったと思う。

ブリトーを見ると、今でも当時をちょっと思い出すが、そんな訳でお金を払って買う気がしない。

冷凍庫にぎっしり詰まったおにぎりを思い出すと、今でもちょっとぞっとする。