借金をたくさん作ってしまった当時の社長の義理の父。
いくら会社のためと言えど仕方なかったとは、今でもやっぱり言うことは出来ないが、彼なりに家族のためだったのだろうとは今では思えるようになった。しかし当時は若かったということもあったし、何より自分たちの家が無くなってしまったのだ。怒りは当然、義理の父に向けられた。
人生を台無しにされた
ただ、それに尽きた。
また、義理の父はまず人の言うことは聞かないし、プライドも高い、その割には人情に厚くて騙されやすい。実に扱いにくい人物だった。
それと一番困ったことに、金銭感覚がないということ。これは社長としては致命的だ。
しかしこれには少し理由があった。もともと幼少に命からがら両親と満州から引き上げてきて、日本に帰ってからは大変な苦労をした。
長男だった義理の父は、親代わりになって働き兄弟たちを学校に行かせたほどで、お金にはイヤというほど苦労しているはずなのだが、またその反面、若くして面白いようにお金を稼ぐことも覚えた。
お金なんて、なんとかなるもんさ。
事実、まだこういう事態になっていない頃に義理の父は私にそういったことがあったのだから間違いない。
「あさちゃん。俺はね、小さい頃に苦労したでしょう?色んなもの売ったりしてね。色んなところからもたくさん声がかかったの。だからね、ちょっとお金に対して軽く考えちゃうところあるんだよなあ」
どこかに車で送ってもらった時のことで、まだまだ同居する前の平穏の頃の話。その金銭感覚に後々こんなに苦しめられることになろうとは。
さて、ある日のことだった。
とにかく、今ある借金を幾らなのか把握し、削れるものはとことんまで節約しようとクレジットカードなどの明細や、電話代などの明細を日々確認する日々だったが、クレジットカードになにやらよくわからない名目が目についた。
¥80000
とある。池袋あたりのデパートで使ったようだったが、仕入れなどの商品ではないようだ。
義理の父に早速問い詰めると
腕時計を買った。
というではないか。郷里の鹿児島に用事があって帰る時に、腕時計がないことに気が付き買ったらしいのだ。買ったころは、まだ同居していない時間のずれがあったかもしれないが、それでも会社が大変な事態と露呈してからのことは間違いがない。
これには、堂園が火のついたように怒り狂った。
もちろん私も許せるわけがない。
一時が万事、この調子だった。
腕時計で8万は世の中からしたら、たいした代物ではないかも知れない。
ただ、状況によっては、それはそれ以上の価値を持つ時もある。
物が捨てられない性分の義理の父は、頂いたお菓子の綺麗な缶箱をたくさん持っていたが、そこから出てくる、出てくる借金の証書。
もう大半を自分で把握できてなかった。すでに完済済みの証書もあったし、ありとあらゆる書類が無造作に缶箱に入れられていて、不要なものを捨てたりした。
そういう作業を見ているだけでも、気が遠くなったし本当にイライラした。しかし義理の父はあまりにも皆から問い詰められることが多いので、逆ギレすることもしばしばだった。
次第に堂園と義理の父の喧嘩も日々増えていく。
もちろん私も喧嘩した。
家族全員で協力して?一丸となって?
冗談じゃない。
狭い一戸建てに片寄せあえば、あうほど心は逆に離れていった。
家族の心はどんどんバラバラになり始めた。