【電子商店繁盛記 Episode=0 】血の気が引く

ホームページを作ったり、アルバイトをしたりと、同居してから私たちの生活にも徐々に変化がおきてきた。

ホームページはもっぱら、堂園の仕事で、昼間は卸の仕事をして、夜はパソコンに向かう日々だった。

私がアルバイトのない日の、私たちのもっぱら息抜きといえば、歩いて1分ほどの酒屋に行って、ビール1本買って、酒屋の目の前の公園のベンチで飲むこと。

町まで行って、レンタルビデオ屋に行くこと。

そんなもんだったと思う。

ホームページ作りは、朝まで続くこともあったようで、夜遅くに帰ってきた義理の父と堂園がぶつかることが多々あった。

義理の父は、なぜか?酒を飲んでくることが多く、聞くとお得意様と飲んでいた。ということだったが、ずっと後になってわかったことだったが、やはり家に居場所がないと感じ、お得意様でも特に個人的に親しくさせていただいている人のところへ行っては、愚痴をこぼしたり、悩みを聞いてもらっていたようだった。

私たちは幸い、2人で悩みも、苦しみも、公園のベンチで話すことである程度解消できたが、義理の父は孤立無援。もちろん義理の母が別れず、支えてきてくれたこそ義理の父もやってこれたのだと思うが、義理の母には理解してもらえないこともあったのだと思う。特にワンマンでやってきただけに、理解してもらおうと思ってもその術を知らなかったと思う。

酒の入った義理の父と、寝ずにパソコンに向かう堂園が、夜遅いという時間も加わって、それこそ大喧嘩することも多々あって、そのたびに二階に居た私はびっくりして、飛んで下に駆け下りた。

血の気が引く

という言葉があると思うが、これは本当で、喧嘩が始まった!とわかると、手の先とか、足の先がものすごく冷たくなった。

これが本当にイヤで、今日はもうほっておこうと思っても、どんどん手先が冷たくなるので、怖くなってやはり下に駆け下りてしまった。

義理の妹も、そのたんびに驚いて、私より先に駆け下りた。

それだけ、大変な大騒ぎだったということだ。

どうして、そんな喧嘩になった?と聞くと

そんな訳もわからない、インターネットなんてやってどうするんだ?

というようなことを言われたということだった。

今では、会社のメイン事業になってしまったが、当時はそんな風にまったく回りには理解されなかったのだ。

色んな意味で苦しい時代が続いた。

 

 

 

【電子商店繁盛記 Episode=0 】お水の世界に??

ホームページを立ち上げよう!

という私たちなりの、新しいビジネス。

これはその後、私たちを助けてくれることになるのだが、その当時はそんなこと夢にも思っていなかった。

堂園はそれから、昼間は卸の仕事、夜はホームページ作りに没頭した。

私は、手伝うことも出来ないし、やることもないので、また月3万のお金ではやはり心細かったので、夜はバイトをすることにした。そう、お水の世界に飛び込んだのです。というのはウソです。

液体は液体でも血液の世界に飛び込んだ。

夜の6時~9時の3時間、都内各地の病院で採血され集められた血液を、私がバイトに行ったその民間の会社で検査するのだが、その検査の前段階の準備のバイトを週3回だったと思うのですが、はじめることにした。

夜なので時給も高いし、3時間という時間も短い。作業は白衣を着て行うが、白衣を着て仕事をするっていうのも、なかなか面白かった。

検査する前の準備というのは、血液を遠心分離機にかけたり、ベルトコンベアーに試験管に入った血液を、どんどん流していく(結局流して、何をしていたのかは忘れてしまった)作業とか、常時10名くらいが、各作業を担当していくという仕事。

たまたま見つけた仕事だったが、私が今まで見たことのない世界だった。

そっか~血液検査します、って言われて例えば近くの病院で採血した血液がもしかしたらここに来ていたのかもしれないなあ~とか、アイスボックスに血液を入れて、その会社に戻ってくる営業?の人たち。あ~こういうアイスボックスぶら下げている人、病院で見かけたことあるよ、とか思いながら、まったく違う世界にいるのも逆に気が楽だった。

でも結婚して、まさかこんなアルバイトをするとはと、人生って何がおこるかわからないとつくづく思った。しかも、働いているのは20歳前後の子ばかり。大学が終わってから来る子だったり、司法試験を目指して頑張っている子だったり。私は当時28歳。思いっきり最年長で、むしろ職員さんに近い側。

ただ、なぜか親しくしてくれた21歳と19歳の女子大生と女子短大生がいて、ねーさん、ねーさんと仲良くしてくれて、ごはんを食べに行ったり、彼女たちのアパート(二人とも一人暮らし)に遊びに行って、夜中までおしゃべりしたり。つらい時代でしたが、彼女たちのおかげで、本当に救われた。

彼女たちとは、1年半の付き合いだったにも関わらず、20年近くだった今でも2年に1度くらい会って食事をしたりしている。不思議な縁だ。

アルバイトをやめる時は、職員の方も非常に残念がってくれた。

何の仕事でも、真摯に一生懸命に取り組めば、必ず結果が出る。たとえ、それはバイトでも。

生活費の足しというより、遊ぶお金欲しさにはじめたバイトだったが、今になってみると本当に貴重、というか縁と同じで不思議な1年半だった。

 

 

【電子商店繁盛記 Episode=0 】照明器具を売ってみようか?

顔を合わせれば、義理の父と堂園は喧嘩。という日々の中、仕事も少ないので私自身もやることもなく、よく堂園の工事や納品に一緒に車に同乗してついていくことがあった。

車の中から外を眺めているだけでも気晴らしになったし、何より車の中で色々話すことも出来たからだ。

何か転機がある時、いつもの日常と変わらないにも関わらず強く記憶に残ることがある。

ある日のドライヴが私たちの中では生涯忘れられない記憶の1つだ。

都内に納品に行くというので、私もついていくことにした。その時にこんな話になった。

その当時使っていたパソコンは、知り合いの工事業者に頂いたもので、ウインドウズ以前の本当に初期型のパソコンだった。

このパソコンで何をしていたかというと、主に見積もりくらい。ただ、このパソコンを頂いたおかげで、以前に区のやっているパソコン教室に行ったりして、勉強するきっかけになっていた。

そして96年。確かウインドウズ95が出た頃だったかと思うのだが、それでパソコンを新しくするとインターネットというのが出来るようになるんだ、という話題になった。ウインドウズを入れたからってネットに即つなげるとい話ではないのだが、ちょうどインターネットが話題になりはじめた頃で、新しいパソコンにすればそれが容易に設定が出来るようになる、ということだったのだと思う。

「インターネットって、このまえTVでやってたけど、なんか海外のホームページ?っていうのを見たり、買い物とかしたりできるんだってね?」

その程度の知識だった。

海外のホームページには興味はあるけれど、買い物って言ったって別に欲しいものもないしなあ。と思った。でもその時に堂園が

「照明器具をホームページで売ってみようか?」

と言い出した。私はその時に、こういったと思う。

「どうやって送るの?」

照明器具のかさばる箱を、ワレモノを、どうやって送るというのか?今のように、宅配便が大活躍している時代と違う。

「うーん。やってみないとわからないよ。宅配便で送れるんじゃないか?」

雲をつかむような漠然とした会話だった。

でも肝心の新しいパソコンを買うお金が捻出できない。

ここで、私はすっかり忘れてしまったのだが、どうやら私が貯金から買ってもいいという話になって、私がお金を出したらしい。

なぜか私はこの部分については、全然覚えてないのだが、インターネットで照明器具を売ろうか?という話や、その時にどのあたりを車で走っていたのか?とか、宅配便で送るって想像つかないなあ、と思ったことなど、鮮明に思い出すことが出来る。

本当にこれが2人でネットショップについて話をした一番最初のことだ。

都内に向かう車の中で、こうやって私たちのネットショップは生まれたのだ。

 

【電子商店繁盛記 Episode=0 】8万円の腕時計

借金をたくさん作ってしまった当時の社長の義理の父。

いくら会社のためと言えど仕方なかったとは、今でもやっぱり言うことは出来ないが、彼なりに家族のためだったのだろうとは今では思えるようになった。しかし当時は若かったということもあったし、何より自分たちの家が無くなってしまったのだ。怒りは当然、義理の父に向けられた。

人生を台無しにされた

ただ、それに尽きた。

また、義理の父はまず人の言うことは聞かないし、プライドも高い、その割には人情に厚くて騙されやすい。実に扱いにくい人物だった。

それと一番困ったことに、金銭感覚がないということ。これは社長としては致命的だ。

しかしこれには少し理由があった。もともと幼少に命からがら両親と満州から引き上げてきて、日本に帰ってからは大変な苦労をした。

長男だった義理の父は、親代わりになって働き兄弟たちを学校に行かせたほどで、お金にはイヤというほど苦労しているはずなのだが、またその反面、若くして面白いようにお金を稼ぐことも覚えた。

お金なんて、なんとかなるもんさ。

事実、まだこういう事態になっていない頃に義理の父は私にそういったことがあったのだから間違いない。

「あさちゃん。俺はね、小さい頃に苦労したでしょう?色んなもの売ったりしてね。色んなところからもたくさん声がかかったの。だからね、ちょっとお金に対して軽く考えちゃうところあるんだよなあ」

どこかに車で送ってもらった時のことで、まだまだ同居する前の平穏の頃の話。その金銭感覚に後々こんなに苦しめられることになろうとは。

さて、ある日のことだった。

とにかく、今ある借金を幾らなのか把握し、削れるものはとことんまで節約しようとクレジットカードなどの明細や、電話代などの明細を日々確認する日々だったが、クレジットカードになにやらよくわからない名目が目についた。

¥80000

とある。池袋あたりのデパートで使ったようだったが、仕入れなどの商品ではないようだ。

義理の父に早速問い詰めると

腕時計を買った。

というではないか。郷里の鹿児島に用事があって帰る時に、腕時計がないことに気が付き買ったらしいのだ。買ったころは、まだ同居していない時間のずれがあったかもしれないが、それでも会社が大変な事態と露呈してからのことは間違いがない。

これには、堂園が火のついたように怒り狂った。

もちろん私も許せるわけがない。

一時が万事、この調子だった。

腕時計で8万は世の中からしたら、たいした代物ではないかも知れない。

ただ、状況によっては、それはそれ以上の価値を持つ時もある。

物が捨てられない性分の義理の父は、頂いたお菓子の綺麗な缶箱をたくさん持っていたが、そこから出てくる、出てくる借金の証書。

もう大半を自分で把握できてなかった。すでに完済済みの証書もあったし、ありとあらゆる書類が無造作に缶箱に入れられていて、不要なものを捨てたりした。

そういう作業を見ているだけでも、気が遠くなったし本当にイライラした。しかし義理の父はあまりにも皆から問い詰められることが多いので、逆ギレすることもしばしばだった。

次第に堂園と義理の父の喧嘩も日々増えていく。

もちろん私も喧嘩した。

家族全員で協力して?一丸となって?

冗談じゃない。

狭い一戸建てに片寄せあえば、あうほど心は逆に離れていった。

家族の心はどんどんバラバラになり始めた。

 

【電子商店繁盛記 Episode=0 】誕生日ケーキ

鬼のような会長でしたが、でも実際は誰よりも人に対する愛には溢れている。

そうでなきゃ、あんたらキチガイだーと怒鳴ったりする相手を助けたりしないだろう。

こいつら、とことん厳しくしなければ目を覚まさない。

そう思ったら、誰にどんな風に思われようが、自分の道を突き進むのが会長なのです。

今でこそ、談笑したりもしますが、ダメな時は容赦ないダメだしを食らいます。

忙しい最中、特に年度末にはミスドに呼び出されることが多かったのですが、ある時私も一緒に行ったことがありました。

その時は改札口まで行ったと思うのですが、3月の寒い夜でした。

改札口に現れた会長は、片手にケーキを持っていました。

「あさちゃん。誕生日だろ。今はひでくん(会長はそう呼びます)が買ってあげる状況じゃないからな。俺はね、特技があってね、人に聞いた誕生日は絶対忘れないんだよ」

そういって10号くらいの大きさだったでしょうか?いちごの乗ったケーキの入った箱を差しだしたのです。

そういえば、ちょっと前に私の誕生日だって話をしたかもしれない。

そして

「来年はひでくんに買ってもらいな」

と珍しく笑いました。

2人であまりの突然の出来事に、硬直して突っ立ったままの私たちでした。

「今、思えばね、良かった時のことってあんまり覚えてないんだよ。でもつらかった時にことは、よーく覚えてる。でもね、今思うとそれがかえっていい思い出なんだよ。乗り越えればいい思い出になるんだ。

会社っていうのは、水面の上に出るまでが大変なんだ。でも水面の上に出てしまえば、いい方向に回転していく。今は、まだまだ水面下だけど、若いんだ、やれるさ」

その時の改札口の風景、会長を鮮明に思い出すことが出来る。

うれしい反面、本当に乗り越えられるのかどうか、不安だった。会長の気持ちに答えることが出来るのか?

駅構内を忙しく歩く人たちを見て、何か違う世界にいるような気がした。

でもケーキは本当に嬉しかった。

【電子商店繁盛記 Episode=0 】常に走れ!

波乱含みな同居生活でしたが、会長に

「何か、自分らしい、自分しか出来ないビジネスはないのか!!」

と、顔を合わせるたびに叱咤(激励はない)される日々が続きました。

実際

ない。

次々とお得意様は倒産していくし、既存のビジネスでは到底広がりは期待できるものではありませんでした。

例の週何回かの、会長との会議も会長が忙しいため、駅まで呼び出されて、売り上げの状況を聞かれることもありました。

だいたい、そういう時は堂園が行くことになりました。

寒い、寒い、夜9時頃、川越街道沿いにあるミスタードーナッツで会長を待ちます。

会長はとにかく、いつも忙しい人なので、時には家に持ち帰り組み立てする予定の照明器具や安定器を左右に重そうにぶら下げながらも、小走りに横断歩道を渡って堂園のいるところにやってきます。

とにかく忙しい。そして、何より会長の信条として

「常に走れ」

ちんたら歩く分の1~2分でも時間が惜しいという訳なのです。

そのため会長は、自分の会社の中ではいつも移動は走っていたそうです。

小走りに走ってきた会長に

「どうなんだい?売り上げは?」

そう問い詰められた堂園でしたが、いつも答えることが出来なかった。

寒いし、情けないし、どうして自分はこんな家に生まれてしまったのだと、誰にもぶつけられない恨みにも似たような気持ち。

ドロドロと渦まいては、ただ、ただ会長が来るのを待つだけしか出来ない。

今でも時折、何かトラブルが起こって大変な状況になると

「でもあの時のミスドで待っている自分を思えば、こんなのどうってことないね」

そう、言います。

私はその場には行っていないし、本当につらかったと思う。

家も何もかもなくなって、妻は自分の実家に同居させなければならない、自分で稼いでいるという実感もない。会長にすがるしかない自分がそこにいるだけだ。

いや、私がつらかったなど、到底言える立場ではないのだろう。

本当に、でもそれを乗り越えてくれて、今は感謝しかない。

あなたが逃げたら、もう終わりだったのだから。

 

 

【電子商店繁盛記 Episode=0 】あんたらキチガイだ

ついに私たちの同居生活がスタートした96年。

もう帰るところはどこにもない。ソファが押し込められた4畳程度の部屋があるだけだ。

その頃はまだインターネットでの商売はしていないので、今までの卸の仕事をしていたが、バブル崩壊のあとのため、お得意様は減る一方だった。

その頃まだ、他の会社に勤めていた現弊社会長は、自分の仕事を終えた夜の8時ごろ、週2回くらい、会社の状況を確認すると共に膨大に膨らんだ借金を今後どのようにするかを話し合いに来た。

来る前に、何時ごろ行く、という電話がかかってくるのだが、電話に出ると開口一番

「電話に出るのが遅い!!」

と、叱り飛ばされた。事実、電話に出るのが遅かった。

出来ない会社は電話に出るのが遅いというが、これは本当だ。

私は多少なりとも、外で就職していた時期もあったので電話の対応というのは研修でやったことがあったので、自分自身そんなに遅いほうと思わなかったが、実家では誰かが出るだろう、という甘えもあったし、みんながみんなそう思っているので結果遅くなってしまう。

電話にすぐに出るという姿勢が誰1人なかった。

毎回会長は、ものすごく不機嫌な顔をして入ってきた。そして

「どうなんだい?売り上げは?」

と、聞く。しかしお得意様が減る一方、ろくな営業努力もしていなかったし、当時の売り上げは惨憺たるものだった。

おそるおそる、当時の社長、義理の父が

「○○円 です」 と搾り出すように告げると

会長は舌打ちをして

「そんなもんかい?」

と机に頭をうっぷした。

「あんたら、キチガイだな」

会長の当時の口癖だった。

私はなにより「あんたら」という言葉にショックを受けた。もちろん、そこには私も含まれるからだ。

でも、事実私たちはキチガイだったと思う。

頂きものではあったが、義理の母は鹿児島の人らしく、おもてなしの心に満ち溢れているので会長にその頂き物のお菓子とお茶を出すと

「こういうことされることすら、頭にくる」

とお菓子を指さした。

確かに、そんな状況ではないのだ。頂いたお菓子があるなら、それを夕ご飯にでもしろ、とそこまでは言わないとしても、要はそういうことなのだ。

本当にこの週に2回ほどの話し合いは、気が重かった。

これといった、新しい販路も見つからず、胸をはって言える売り上げもない。

でも変わらず、お腹はすくし、ごはんは食べなきゃいけない。

当時仕入れの支払いがあるからといっては、会長にいつも助けてもらっていた。会長に対する借金もかさんでいく中で、やっぱりお腹はすくし、ごはんを食べた。

自分たちの稼いだお金でもないのに。

同居しているなんて、もうなんてことなかった。

その週に2日の話し合いが、本当に地獄の苦しみに感じた。

【電子商店繁盛記 Episode=0 】あと10年

給料¥30387 という生活が始まった1996年。

少し時間を戻して引越し直前の95年のお正月。まだアパートに住んでいたが、引越しすることは決まっていて、義理の母、妹、堂園と4人で、アパートで今後のことを話していた時に、堂園が

「(会社の立て直しに)まあ、10年はかかるかな」

とつぶやくと、義理の妹は

「そんなに長く、、、、、」

と泣いた。ちなみに義理の妹はその当時まだ企業のOL。

妹も親と同居していたので、その住んでいる家に兄夫婦が家具を一式持ち込んで同居するというのだから、会社に関係ないと言っても不安の大きさは計り知れなかったのだと思う。

そのあと神社に4人でお参りした。しかしお参りしながら、当事者である私はあと10年が長いのか?短いのか?それすらもわからず現実感ないなあ、と思いながら歩いていた。もしかしたら10年なんてそんなものではなく、続くってことがもう無理なのかも知れないし、本当の窮地に追い込まれた時に人はたぶん現実を直視できないんじゃないかと思う。

私もそんな1人だったと思う。何か現実感を伴わないというか、それとやはりしょせんは家族と言っても私は外様だ。いつでも逃げれるというずるい考えもあったということは否めない。

事実、私は何度も逃げようと思ったのだから。

正月が明ければ、引越しが待っている。それは私たちの戦いの始まりも意味する。

でもその直前のエアポケットのような、穏やかな正月だった。

 

*気長に次回をお待ちください、、、、m(_ _)m

【電子商店繁盛記 Episode=0 】ハイあさちゃん¥387

今から思えば、会社が危機的状況になったとわかって、アパートを引越しして同居するまでの決断は実に早かったと思う。

もっと他に方法はなかったのか?と自問自答するも、いやそれは数限りなくあったかもしれない。

自分たちだけでも、会社を辞めることだって、出来ないことはなかったのだ。

でも、こうなるまでに知人、親戚と私たちの知らないところで実にご迷惑をかけている人が多数いることもわかった。親戚には小さい子供たちもいた。

私たちが辞めたり、逃げてしまえばしわ寄せは当然その人たちに行くのは避けられなかった。

それと、今まで住んだり、食べたり、遊んだり、していたこのお金は、本当の利益じゃないし色んな人に迷惑をかけて捻出されたお金だ。

それをわかって、のうのうと私たちだけの我侭で別居することはとても出来ないと思った。

先行き何か同居すれば、いい方法があるという確証も何もなかったが、その時に出来ることはこれだけだったのだと思う。

それと、とてもじゃないが、家賃なんて払える状況でないことは明白だった。

同居すれば、食費や電気代はかからない。というか、私たちが払う必要はない。

私たちには、結婚する前に投資目的で堂園が購入した、一戸建てが埼玉にあった。

バブル時期に銀行にいいように騙されて(笑)実際親戚も利益が出ていたので良かれと思って買ったようなのだが、もうバブル崩壊も目前の頃で、駅前と言っても田舎のため3年くらいは賃貸で借り手もあったが、崩壊後は借り手もつかなくなり空き家状態となり、ローンだけが残った。

本当はそこに住めばいい話なのだが、埼玉でもあまりにも遠すぎて現実的に無理だった。

そのローンも払っていたので、さらに家賃のかかるところに住むことはこれまた現実的に無理だった。

まさに八方塞がり。しかし、ここで先に登場した会長が驚くべき提案をするのだ。

たまたまその時に、利息の低い融資を、もちろん公的に認められている機関から借りることが出来た。もちろん、他には返すべき借金は色々とあったのだが、その融資で、私たちのローンを一括で返済する、と言い出したのだ。

あの時は余裕がなくて、今となっては記憶がおぼろげになってしまったのだが、時期的にバブル崩壊後だったので、中小企業の救済措置みたいな感じの融資だったんじゃないかと思う。ほとんど利息がかからないので、それをローン返済に充当し、その代わりに月々の堂園の給与を会社に返済として入れる、というのが条件だった。

返済期間は、確か2年くらいだったと思う。

ということは、その間は実質手に入る給料はまったくない、ということも意味する。その代わり端数は計算がめんどくさいのか、現金でくれた。

「はい、あさちゃん。¥387」

チャリーーーーン。

毎月の給料日はこんな感じだった。

確か、義理の母が見かねて、私に月3万くれたと思う。それか私のパート代としてだったか、、、?

今時、蟹工船も真っ青か?

そんな訳で、同居生活は¥30387で毎月過ごすことになったのです。

皆さん、信じられますか?(笑)

 

*気長に次回をお待ちください、、、、m(_ _)m

 

【電子商店繁盛記 Episode=0 】涙、涙のお引越し

結婚してから4年。それまで別居していた私たちだったが、会社の危機的状況により彼の実家に同居することになった。

私たちの使用できる部屋は、4畳と使用しない家具を押し込む4.5畳の納戸の2つだけ。4畳の部屋は今まで使っていたソファーをおくと、賞味1畳くらいのスペースしかない。布団を敷くと、堂園の足は部屋から飛び出した(笑)

今まで使っていた家具は、悔しいのでどうしても全部持っていきたかった。

4.5畳の納戸に奇跡的にほとんどの家具を押し込んだ。まあ、まだ結婚して4年なので今と比べて持っていた家具も少なかったということもあるが、それでも2DKのマンションに置いてあった家具をすべて押し込んだのは我ながらよくやったと思う。

しかし残念ながら、冷蔵庫、洗濯機は使うこともしまうことも出来ないため、洗濯機は屋上にブールーシートに包んで置いた。冷蔵庫は実家で使っているのがもう古かったため、交換して使ってもらうことにした。

屋上に置いた洗濯機だけが、外に置くことになったのでそれだけが本当に悲しかった。

引越しは、実家は兼事務所なのでメーカーさんも来るため、同居するのに引越ししている所を見られたら、大変なことになってしまう。

この会社大丈夫なのか?という具合に。

事実大丈夫ではないのだが(笑)

なので、少しずつ近所にもわからないようにひっそりと、何日かにわけて引越しした。

夜逃げではないが、人に知られてはならない引越しをすることになるなど誰が夢にも思おうか。

家具をすべて搬入し、アパートの引渡しが翌日になった最後の日。

ぎりぎりまでそこに住みたくて、布団だけ残して家具も何もない部屋に寝た。

がら~~んとして、声が響く部屋。

この時、はじめて怖いなあって思った。

その部屋も怖いし、これからのことも怖かった。27歳といえば、家を持ったり、家族が増えたりと夢多き年代ではないか?私たちのしていることと言えば、ただただ後ろ向きに、逃げるように引越しをしている現実があるだけだ。

アパートを引き払う日。不動産屋さんに部屋を確認してもらい、鍵を返すのだが、あいにく堂園が仕事があり私1人が立ち会うことになった。

がらんとしたアパートに1人、不動産屋さんが来るのを待ったが、悲しくて、悲しくて涙がこぼれそうになったが、泣き顔で不動産屋さんに会ったら何事かと思うだろう。

残っていた新聞を読んで気を紛らわした。でもやっぱり涙が出そうになって、急いで上を見上げた。気に入っていたアパートだけに本当に悲しかった。

なんとか、不動産屋さんに鍵を渡し、自転車で実家に帰る途中、我慢していた涙が溢れ出た。

 

*気長に次回をお待ちください、、、、m(_ _)m