【電子商店繁盛記 Episode=0 】迫られる決断

藁をつかむ思いで、その当時電機製造メーカーに勤めていた、現当社会長に相談をしに行ったところ、会長はもともと商売がうまくいっていないことは気がついていたらしい。

何度となく義理の父を呼んでは、状況を問いただしていたらしいのだが、足が遠のくばかりの義理の父を見てもともと勘のいい人だったので、うまくいっているとは思っていなかったらしいのだ。

しかし、実際状況を聞いてみると、会長の想像を遥かに超えていた。

私はその当時、まだ会長には何回かしかお会いしたことはなく、よく知らなかったのだが、会長に相談してから、何日かしたあとに会長が私に会いたいと言っていると聞いた。

私に?私に会って何を?

そう思いながらも、会長はそれからほどなく当時赤塚にあった私たちのアパートにやってきた。

前にも書いたが、会長は厳しい人だが、仕事に直接関係ない人にはいたって優しい口調だ。

「話は聞いてると思うけど、会社がにっちもさっちもいかない状態になってる。ここで2人で暮らすのは贅沢だよな」と笑った。

そう、もうこのアパートの家賃を払えないほど、会社は逼迫しているのだ、ということを直に伝えに来たのだ。

人はこれを聞くと、たぶん会長って人はなんて恐ろしい人なんだ、と思うかもしれない。

私もそう思う(笑)

でも今思うと、私は会長はもう1つの意図があったように思うのだ。

私の歳はその当時27歳。アパートを出るということは、実家で同居しろということだが、実家といっても本当に狭い一戸建てだ。そんな厳しい状況に耐えることが出来るとは、たぶん到底思わなかったのだと思う。でもそこをあえて、単刀直入に言うことによって、私が

出来ません。

という言葉が出ると思っていたのだと思う。

要は私の根性を試したのだ。私がもし出来ないといったら、会長はたぶんうちの会社を救う気はなかったと思う。会長自身もたぶん迷っていたのだ。

救うべきか、見捨てるべきか。

なぜ、そう思うかというと、何年かしたあと、会長が

「あの時に、やるって言うんだもんな~ほんと驚いたよ。あれで俺もやらざるを得なくなった。」

たぶんこの言葉は、当時から3年くらいたってからだと思う。ようやく笑って当時を言うことがで少しづつできるようになった頃だ。

それまでは、会長は私たちに本当にニコリとも笑ったことはなかった。

会長自身も私たちを救うことにより、立場が大変なことになって行った。

もう私たちだけの問題だけではなくなったのだ。

会長との壮絶な時代が始まった。

 

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【電子商店繁盛記 Episode=0 】藁をもつかむ

1995年。会社の大変な事実が発覚したその年、このままでは存続不可能ということは明確だったのだが、ここで私たちの運命を握る人物が登場する。

当社の前社長であり、現会長だ。

北海道から集団就職で東京に出てきて、都内にある電機製造メーカーの経理事務に従事。仕事ぶりは優秀で、当時そのメーカーさんの番頭さん的存在であり経理はすべて彼にまかされていたが、義理の父もその昔そこに勤めていたこともあり独立する際には会長にずいぶんとめんどうを見てもらったのだそうだ。

独立してからもしばらく、帳簿を見てもらっており仕事に集中できた義理の父はもともと営業センスは秀でていたので、順調に会社は成長していった。

しかし、会長は頭脳明晰で相当優秀な人物なのだが、それゆえにとても厳しい。言っていることは無駄がなく間違いがないが、元来おおらかな性格の義理の父とは反りがあわず次第に、経理について注意されることに嫌気が差し、会長から遠のく結果となった。

世の中が景気のよい時であれば、多少はどんぶり勘定でも会社は経営できるが、景気が悪い時にはそれなりの営業努力や数字を把握しておかないと、資金繰りは悪化する一方だ。

以前は会長に帳簿を見てもらっていたが、手を離れてからは自己流となり積み重なった赤字を補填することも出来ず、もう手のつけられない状態の帳簿を目の前にして、義理の母は決したように言った。

もう一度、会長に相談しよう。

藁をもつかむ思いだった。

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【電子商店繁盛記 Episode=0 】ある日突然帰らなかった

1995年のこと。

結婚して3年目のことだ。

ある日、突然堂園が帰って来なかった。

日頃、夜遊びして無断外泊というタイプではないし、当初、仕事で遅くなるという電話は1本入っていたので遅くなることは知っていたが、そのまま結局朝まで帰って来なかった。

思えば、私たちのそれからの激変生活はその日から始まったと思う。

なぜに帰って来なかったかというと、会社における驚くべき事実が発覚したからだ。

それまで、会社の資金繰りというのは、今亡き義理の父、前々社長が1人行っていた。

資金繰りが厳しいということは、重々に承知していたが、実はもう義理の父1人では抱えきれる問題ではなかったのだ。

しかし、もともとワンマン社長で、どんぶり勘定だった義理の父は、もうすでに抱えきれる問題ではなかったにも関わらず、自分で何とかしようと奔走した結果、さらに問題は深刻化した。

それが露呈したのが、この日だったのだ。

私たちの知らない町金融の借金

これが信じられないくらいに膨らんでいたのだ。

一般常識として、町金融に手を出したらどうなるか?

末路はすでに決まっている。

地獄へのレールはすでに敷かれていた。

私たちはすでに、そのレールを走る電車に乗っていて、そのスピードが遅いか速いかのそれだけの問題だった。

私はその時、まだそのことを知らなかったが、帰らないという異常事態にいい様のない悪い予感を覚えた。

私もその時、朝まで眠れなかった。

 

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【電子商店繁盛記 Episode=0 】時の流れ

結婚して4年は気楽に暮らした。

その証拠に、堂園は時折パチンコなどしていた時もある。

まだインターネットなどない時代。

私もパチンコをしたことが1度あった。

そんな時代。

アメリカに1週間、旅行に出かけたこともあった。

新婚旅行で知り合ったアメリカ人のご夫婦の結婚式に出るためだ。

1週間、仕事を休んだ。

旅行中も仕事のことなど一切気にすることもなくだ。

象徴的に思い出すのが、あまりにやることがなくて堂園は、油絵入門の本を買ってきたことがあった。趣味に油絵をやろうと思ったらしい。

今は、時間がなくて、やることが多すぎてどうしたらいいかわからないくらいなのに。

この4年間の時間は、今とは違って実に時がゆっくりと流れていた。

でも4年間でそのゆっくりとした時間は終わった。

今は、こう思う。

神様は先に休暇を私たちに与えたのだと。

でも、こうも思う。

それにしては、ちょっと足りない気もする?(笑)

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【電子商店繁盛記 Episode=0 】まえがき

電気のついていない2階の階段から下を覗いた時、窓がついていないその1階への階段は、真っ暗闇で、闇がその時に本当に黒いと思った。

たった10何段しかないその階段は、その暗闇の中に永遠に続いていくようにさえ思えた。

これは私が夫、堂園の実家に同居していた頃のある日に感じたことなのだが、それが今でも一番印象的だ。

1995年の冬のことと思う。

私は27歳で、堂園が28歳。結婚して4年目のこと。

思えばそれからもう20年近くなるが、今でもその黒さをはっきりと思い出すことが出来る。

その時、実家の1階では、堂園、義理の父、母がこれからの資金繰りのことで話し合っていた。まだ本当の事態を知ることのなかった私だったが、なにか胸騒ぎがして落ち着かず、心配してそっと2階の階段の上から1階を覗いてみた訳なのである。

そうまさに、そこから私は、いや私たちはこれから長く続く暗闇に入っていった。

いや、むしろもう何年も前から渦中に居たのかもしれない。

無知な私たちはそれに気がつかなかっただけなのだ。

20年を節目に少しづつ振り返ろうと思う。

 

 

*気長に次回をお待ちください、、、、m(_ _)m